宇宙一美しい奇跡の数式「0=∞=1」から始まる新しいLife Style-

こんにちは!観術セミナー講師、認識コンサルタントの塩見典子です。このブログでは、認識技術「観術」が何なのか?なぜ必要なのか?どのように活用するのか?また、セミナーや講演会だけではお伝えできないNohさんから教えていただいた知恵や魅力的な側面をお伝えします。是非、楽しみにご覧ください。^^

台湾で最も尊敬されている日本人 八田與一と妻外代樹(とよき)【前編】

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 宇宙一美しい奇跡の数式「0=∞=1」から始まる新しいLife Styleを提案するnTechセミナー講師/認識コンサルタントの塩見典子です。

 

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台湾で最も尊敬されている日本人 八田與一と妻外代樹(とよき)【前編】

 

 

 

親日家が多いことで知られている台湾。

 

その台湾で最も尊敬されている日本人 八田與一さんをご存知でしょうか?

 

       

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今日は台湾の不毛の土地を肥沃な農業穀物地域に一変させた八田與一さんをご紹介しながら、日本の精神性について考えたいと思います。

 

先日、八田與一さんのお孫さんである八田修一さんの講演会に参加しお話を伺いました。

 

(写真はご本人から掲載の承諾をいただいております) 

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講演会で伺ったことや、調べて知ったこと、わたしが感じたことなどを書きたいと思います。

 

当時の台湾の様子

 

台湾は日清戦争後の1895年〜1945年までの50年間、日本の統治下におかれました。

 

当時の台湾はコレラペスト赤痢天然痘発疹チフスチフスジフテリア猩紅熱など、様々な伝染病・風土病が蔓延する「瘴癘(しょうれい)の島」と言われ、一旦入ると生きて帰れない地とみなされていました。

 

とても厳しい環境の中で日本政府は台湾のインフラ整備を行い、その内の一つが治水工事で台湾にたくさんのダムを建設しました。

 

18世紀末の台湾では土地開発は飽和し人口過剰による食物不足となり、19世紀に入ると飢饉が深刻化していました。

  

八田さんのつくった烏山頭ダム

 

台湾総督府の土木技師であった八田さんは台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当時東洋一の規模のダムを造りました。

 

 

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烏山頭ダムの貯水量は1億5000万トン、ダムを満水にするために40日も要するという巨大ダムです。

 

そこから1万6000Kmにも及ぶ水路を嘉南平野全体に張り巡らせ、隅から隅まで水が行き届くようにさせました。

 

水路の長さはおよそ地球の半周です。

 

海からの塩害も洗い流し、水田は30倍に増加、ダムの完成後7年目には生産量は11倍に増えました。

 

工事現場には従業員と家族が住める宿舎が建てられ、2,000人ほどが住んでいました。学校や病院もつくられ一つの町ができました。

 

ダムを建設する中で2回の大きな危機があったそうです。

 

工事の途中で起きた爆発事故

 

トンネル工事の途中でガス爆発事故が起こり、50余名の殉職者がでました。

 

八田さんは事故現場で陣頭指揮を取り、原因の徹底究明と犠牲者の遺族のお見舞いに奔走したそうです。

 

工事が終わるころ、工事の為に亡くなった人々(事故以外に伝染病などで亡くなった方も含め)とご家族の名前を刻んだ殉工碑がたてられました。

 

名前は亡くなった順で日本人と台湾人が混じって刻まれています

 

八田さんや建設現場の仲間の中には、日本人・台湾人とう意識はなかったのではないでしょうか。

 

戦後に生まれている私たちの感覚からすると「日本人と台湾人を分け隔てなく」と感じるかもしれませんが、当時の人たちの気持ちになってみると、共にあたらしい未来、あたらしい国をつくる仲間であったように感じます。

 

半数以上の従業員の解雇

 

また、死者10万人、全壊家屋12万8000世帯という大惨事を引き起こした関東大震災では、台湾総督府も年間予算の30%を復興支援の財政援助を申し出、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られました。

 

 

ダム建設の従業員の半数を解雇せざるを得ない状況になりました。

 

 

3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは身を切られる思いでしたが、八田さんは、技術力の高い人(多くは日本人)から解雇をしたそうです。

 

技術力のある人は次の仕事が見つかりやすいからです。

解雇者の再就職先を探すために奔走したと言われています。

 

ダム完成後

 

工事開始より10年の年月をかけダムが完成しました。

アメリカの土木業界からも高く評価され、東洋における土木の新時代を拓きました。

 

ダム完成後、八田さんは台北に戻り、土木測量技術者の養成所をつくり、その学校は今でもたくさんの技術者を排出しているそうです。

 

1942年5月(第二次世界大戦2年目)八田さんは南方開発派遣要因としてフィリピンに向かいます。

 

5月8日八田さんの乗った船は五島列島沖を航海中に米潜水艦の魚雷を受け沈没。

56歳で生涯を閉じました。

 

後編『妻 外代樹(とよき)さんはなぜ自殺したのか』に続く

 

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